ヨーロッパ圏内でクリスマスを迎えたいアトレティコと、上に行けそうでいけないデポルティーボの一戦。
試合は1−0で終わったが、その唯一の得点シーンにアトレティコのしぶとさとデポルティーボの弱みが良く表れているので、それについて。
まず、あの得点は、右サイドのスローインから「横一列から、後ろに引いた人間の裏にもう一方が走り込み、そこにボールを逸らす」という、ありがちといえばありがちな手法から生まれた。
これはサルバとトーレスが揃った場合に、アトレティコが常に狙っている筋であり、オサスナ戦でもまったく同じ流れから得点を奪った。
最初に、オサスナ戦で流れを少々詳しく。
ディフェンダーがセサル、アンドラデになっておりますが、これは後の都合のためで、オサスナに変換するためには、それぞれをクルチャガとクエジャールに変換していただけるとよろしいかと。
まず「この図」のような配置から開始され、レオ・フランコのゴールキックに対してサルバがボールに触るために下がる。
この時、トーレスは、「図」のように、サルバが空けたスペースに走り込む。
そこにボールをフリックヘッダー(逸らし、プロロンガシオン)で送り込めば、「図」のように、斜めに走る相手に対して後追いになりがちなセンターバックを振り切ったトーレスがフリーになる。
オサスナ戦では、トーレスがそのままシュートを撃ってゴールを決めた。
このセットプレーの核となるのは、「ずれていた二人のフォワードがボールの軌道下へ一列に並ぶ」ということで、これはフォワードがコンビを組んで動く際の基本になる。
このように長いボールに対して一列になれば、短いボールは下がった選手がキープし、長いボールは縦に出る選手が回収でき、この二人の周囲をミッドフィールダーで囲めばロングボールの回収率が飛躍的に増す。
横から入るボールに対して一列になれば、スルー(手前の選手がボールを触らずにすかす)行動がディフェンスに対しての脅威になり、攻撃のオプションが増す。この行動は、その昔のドワイト・ヨーク、コールで構成されたマンチェスターUのコンビが抜群に上手かった。
もしコーチとして、二人のフォワードを置くシステムを採用して子供たちに教える時、上の基本を教えると二人のコンビネーションが確実に改善されるので、是非試していただきたいかと。
それはさておき、この試合で同じ文脈のプレーが、「図」のような場面において再現された。
図の都合上、スローインはアトレティコ陣から行われているが、実際にはデポル陣に5m程入った場所で行われた。
アンドラデを連れて下がることでスペースを空けるサルバ、その横から斜め前方に走り込むトーレス、そこへのフリック、トーレスのスピードについていけずに振り切られるセサル、等、完全に同じパターンが再現されている。
流れからの点が少ない欠点を補うために、スローイン一つをおろそかにしない点がアトレティコの強さなら、それに対するデポルの守備はいかにもまずい。
まず、サルバとトーレスに対してディフェンスラインが数的優位を保っていない。
これを確保するためには、ルケが下がってイバガサをマークすることでロメロを守備ラインに下げる。もしくは、スカローニをセサルに近づけてスカローニの位置をビクトルがカバーする。
この二つが考えられる。基本的にルケを前に残すのなら右サイドの戻りを徹底させるべきだが、サイドバックのスカローニはセンターバックとの間を空けすぎ、ビクトルは前に残ったままだった。
もしスカローニがサイドに残るなら、セルヒオの位置を下げるべきだが、両者の関係は中途半端なままだった。
次にセサルのスピードではトーレスにまったくついていけない。
この場面ではトーレスの縦を切ろうとするあまり簡単に中央に切り返されたが、これはスピードで劣るため、全力以上で追わざるを得ず、切り返しへの対応が遅れるためである。
さらに言えば、アトレティコが決定的なチャンスを迎える場面には、ほとんど必ずセサルとトーレスの一対一が絡んでいる。
これまで、デポルのセンターは、ドナト、ナイベト、アンドラデと続いて固かった。
セサルはハイボールで攻めてくる相手には極めて有効だが、スピード面から地上戦を挑まれると厳しい。
センターバックの弱さと、それをサポートすべきボランチとサイドバックのカバーリングに対する認識のずれ、この二つがこの場面に凝縮されている。
今後の修正が注目なのではなかろうかと。
一方のアトレティコはシメオネとの別れを勝利で飾った。
試合前、子供達と一緒に背広姿のシメオネがカルデロンの芝を踏んだ。そして、場内からは「チョロチョロチョロ、チョロシメオネ」の大合唱が巻き起り、止むことはなかった。
彼は、カルデロンの「愛」としかいいようのないものの中心にいた選手だが、それを再認識させられるアトレティ達の声だった。
カルデロンのオヤジ達が、彼のタックルの一つ一つに熱狂する姿が見られなくなるかと思うと、寂しくてなりません。