この日の感想は、「なんや全然盛り上がらへん試合やったな」というものだったのですが、取り敢えずその原因を簡単なデータを参照しながら考えてみようかと。
まず個人的におもんないと思ったのはシュートシーンの不足。
あまりにもボールがゴール前に行かない印象が拭えなかったので、調べてみると、
前半(アトレティコ:ラシン)
シュート数 6:3
枠内シュート 1:1
キーパーがシュートブロックを行った回数 1:0
後半(アトレティコ:ラシン)
シュート数 2:5
枠内シュート 0:2
シュートブロック 2:0
結局、合計の枠内シュート数はアトレティコ1、ラシンは3。
これで盛り上がることができたら奇跡に近い。
こんなデータを残しながら、試合結果は1−0でアトレティコの勝ち。
枠内シュート一本で一点を取った事実を指して、ある新聞では、「効率抜群(ムイ・フェクティーボス)」と書いていた。
皮肉を額面どおりに受けるスペインにあっては珍しいセンスである。
しかしながら、思考を前向きにして、シュートが少なかったのは両チームの守備が良かったからだ、と思えば確かにその通りである。
ラシンの監督、ルーカス・アルカラーは、レクレアティーボ・デ・ウエルバ時代から音に聞こえたシステム主義者で、恐ろしい程に教科書的な布陣を好み、そこから繰り出すゾーンディフェンスを得意とする監督であるし、アトレティコのセサル・フェランドはアルバセーテ時代から二言目には「規律と秩序」を口にする、集団守備主義者。
この両者が対戦したのであるから、奪ったボールをその三秒後には失い合う展開になったのも致しかたないかと。
特にアトレティコの前線からの守備は見事で、失ったボールに素早くプレッシャーをかけながら、最も近いレシーバを空け、そこへのパスを狙い撃ちで潰している。
これを成功させるためには、レシーバーをマークする距離とポジションが大切で、特に最初の位置をパサーの死角にとる必要がある。
各選手、このポジショニングが非常に上手く、まるで守るために攻めているような印象すら与える。
この試合を楽しむためには、常にボールを持っていない方のチームに注目して、そのプレッシャーとカバーリング、ボール状況によるマークするべき選手との距離の変化を追い続けるしかないと思われるが、そればっかりで90分を過ごすのは非常につらい。
この日唯一のゴールは、代表でのパフォーマンスをとことんまで叩かれたフェルナンド・トーレスが決めたが、その瞬間、スタジアムはあっけにとられたような雰囲気に包まれた。
右サイドからホルヘのセンタリングが上がった直後は、誰しもが「ああ、ディフェンスにクリアされて終わりだ」と思ったはずなのだが、それをラシンのセンターバック、ピエリーニが空振り。ワンバウンドしたボールはキーパーのドゥドゥ・アウオアテとセンターバックのモラトンの頭上を越えてトーレスの頭にドンピシャリ。ニーニョは冷静にゴールマウスへと送り込んだ。
サッカーのゴールを喜ぶためには予感と課程が大切であり、それに入るかどうかわからないドキドキが加算されると感情が爆発的する、と思われる。
例えば、バセリナ(ループシュート)で考えてみると、キーパーの頭を超えて「おお、入る入る入る、入ったー」と盛り上がるからこそ、どかんと喜びが爆発するわけで、その盛り上がっていく過程が大切である。
ここでシュートがちょっと高目に上がったりすると、「入んのか?入んのか?入んのか?おっしゃー入ったー」となって更なる喜びにつながる。
しかしながら、アトレティコの先制点は、なんの予感もない状態で決まった。
このため、観客は喜ぶタイミングを逃したにもかかわらず喜ばねばならない、非常に微妙な立場に置かれた。
そしてピッチ上では、フェルナンド・トーレスが立てた親指をしゃぶる、謎の赤ちゃんパフォーマンスでゴールを祝った。その解釈には諸説ある。
その中でも有力なものは、「代表でのプレーを成熟不足と批判した連中への意趣返し」と「友達が妊娠したのでそのお祝い」の二つであり、本人の口からは語られていない。
動機がなんであれ、頬に赤みが残るニーニョ・トーレスがそのような行動をとってしまうと「妙に似合い過ぎだよ」と思わなくもない。
試合後、セサル・フェランドは、「ボールを取った後、3本パスをつなげないんだからどうにもならん」と語っていたが、無理にボールをつなごうとせず、このまま中盤での叩きあい路線を追求したほうがアトレティコらしくて良いような気もするのですが。
一方のラシン。守備は実に良く練られているが、攻め筋があまりにも限定されている。
煎じ詰めてしまえば、ベナジュンの一瞬のプレーか左サイドを縦に抜けるレゲイロへのロングパス以外に状況を打開する方法を持たない。
ルーカス・アルカラーの首筋が相当に寒い昨今、来週のサラゴサ戦まで持つや否や、注目であります。